2009年06月26日

ブッシュ大統領は2002年初頭の一般教書演説

ブッシュ大統領は2002年初頭の一般教書演説において悪の枢軸発言を行い、イラク、イラン、朝鮮民主主義人民共和国は大量破壊兵器を保有するテロ国家であると名指しで非難した。特にイラクに対しては、長年要求し続けた軍縮の進展の遅さと、大量破壊兵器の拡散の危険を重視し、02年に入って政府関連施設などの査察を繰り返し要求した。

2002年11月8日、イラクに武装解除遵守の『最後の機会』を与えるとする国際連合安全保障理事会決議1441が全会一致で採択された。イラクは「悪の集団」による「邪悪な決議」と非難したが[12]、UNMOVICの受け入れを容認し、4年ぶりに全面査察に応じた。また、決議には30日以内に報告するという規定があったが、イラクは「邪悪な決議」であることを理由に期限の延長を申し出たが、受け入れられなかった。12月7日にイラクは膨大な量の申告書を提出した。

2003年1月9日、UNMOVICのハンス・ブリクス委員長とIAEAのモハメド・エルバラダイ事務局長は安全保障理事会に調査結果の中間報告を行った[13]。この中で、大量破壊兵器の決定的な証拠は発見されていないものの、昨年末に行われたイラク側の報告には「非常に多くの疑問点」があり、申告書には「矛盾」(#大量破壊兵器捜索を参照)があるとした。また、イラク側が国連ヘリコプターによる飛行禁止区域の査察を拒否するなど、査察非協力も明らかになった[14]1月16日には申告書に記載されていなかった化学兵器搭載可能なミサイル12基がUNMOVICによって発見された。このためアメリカとイギリスは、イラクが安保理決議1441に違反したものとして攻撃の準備を始めた。

2月14日から2月16日にかけてカトリック教徒でもあるイラクのターリク・ミハイル・アズィーズ副首相はバチカン、イタリアに渡りローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会談するなどして戦争回避姿勢を国際社会にアピールした。
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3月7日、UNMOVICは2度目の中間報告を行った。アメリカは査察が不十分であるとして、攻撃に関する決議採択を行おうとしたが、フランスは査察期限の延長を求めた。このため決議否決の可能性が高まり、アメリカとイギリスは決議無しでの攻撃に踏み切ることにした。

2003年3月17日、先制攻撃となる空爆を行った後、ブッシュ大統領はテレビ演説を行い、48時間以内にサッダーム・フセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。しかし、フセイン大統領は徹底抗戦を主張して応えなかったため、2日後の3月19日(アメリカ東部標準時)に予告どおり、イギリスなどと共に『イラクの自由作戦』と命名した作戦に則って、攻撃を開始した。

2009年06月10日

領陸または狭義の領土ともいう

領陸または狭義の領土ともいう。日本においてはこの意味における領土に関して定めた国内法がなく、主として条約、特に日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が法規範になると考えられる。

領海とは狭義の領土、すなわち領陸の沿岸に沿った一定の幅の帯状の海域で、当該国家の主権が及ぶ範囲のものをいう。古くは、大砲の着弾距離を根拠として低潮線より3海里を領海の幅とすることが国際慣習とされていたが、かつては、12海里や200海里を主張する国家も存在していた。
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現在は、1982年に採択され1994年に発効した「海洋法に関する国際連合条約」(通称:国連海洋法条約)により、それぞれの国が12海里を超えない範囲で自国の領海の幅を決める権利を有するとされている。日本においては「領海及び接続水域に関する法律」(昭和52年法律第30号)によって原則として基線から12海里(約22.2km)の海域と定めており、一部の特定海域については3海里(約5.6km)となっている。

領空とは狭義の領土と領海の上方の空間をいう。古くは上限は無制約とされていたが、現在は1967年に発効した「月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用における国家活動を律する原則に関する条約」(通称:宇宙条約)で宇宙空間の領有が禁止されているため、宇宙空間に属する部分は領空に含まれないとされている。しかし、領空と宇宙空間との境界を明確に画定することには成功していない。

2009年06月06日

閑山島海戦の経過

6月14日に三大名は釜山浦に集結したが、功名に逸った脇坂安治は抜け駆けをして7月7日に巨済島へ単独出撃をした。

一方、二度の出撃で戦果を上げた朝鮮水軍の全羅左水使・李舜臣(24隻)は7月6日に日本水軍の動きを察知すると直ちに出撃し、慶尚右水使・元均(7隻)と全羅右水使・李億祺(25隻)の水軍と合流した。

7月8日、日本艦隊を発見した李舜臣は出撃を主張する元均を抑え、囮と潮流を使った迎撃作戦を展開した。また、この艦隊には亀船三隻が参加していたという。囮と海流に乗って出撃した脇坂艦隊は有力な朝鮮水軍の迎撃を受け大きな被害を出し、脇坂安治も窮地に陥るが、座乗船の大きさと櫂の数による機動性を生かして撤退に成功した。

李舜臣は自身の記録である「見乃梁破倭状」で日本艦隊の発見数を大船36隻・中船24隻・小船13隻、撃破数を63隻と記録している。しかし、脇坂安治への動員定数が1500人であることを考えると発見数と戦果は過大評価の可能性が高い。(翌年5月の晋州城攻撃時の脇坂軍の点呼員数は900人)

この海戦で脇坂安治は部将の脇坂左兵衛と渡辺七衛門を失い、海賊出身の真鍋左馬允は船を失って上陸後に責任感から切腹した。また脇坂艦隊の内、海戦中に船を放棄して閑山島に上陸した者が200人生還している。

脇坂の抜け駆けを知った九鬼と加藤の水軍は7月6日に釜山出帆、7日に加徳島、8日に安骨浦に停泊して後を追った。安骨浦に日本艦隊が停泊しているとの報告を受けた李舜臣は悪天候で足止めされた後、10日に停泊中の日本艦隊を襲撃した。

安骨浦は浅瀬で大型船の運用に危険が伴うため、李舜臣は日本艦隊を誘引する作戦を取ったが日本艦隊は誘いに乗らなかった。やむなく順次突入させて大砲を放つ作戦へ変更して朝から晩まで攻撃を繰り返した。攻撃を受けた日本艦隊は夜の内に安骨浦を脱出して帰投し、朝鮮水軍も翌日から根拠地へ帰投した。

李舜臣は自身の記録である「見乃梁破倭状」で日本艦隊の発見数を大船21隻・中船15隻・小船6、と記録している。

7月14日に閑山島海戦で脇坂軍の敗北を知った秀吉は積極的な艦隊出撃による海上決戦を禁止し、水陸共同による沿岸迎撃作戦への転換を指令し、武器弾薬や沿岸防備の増強を行った。この戦術転換は当時の水軍からすれば有効に機能しており、以降の李舜臣による水軍攻撃は成果が上がらなくなり被害が大きくなり出撃も減ることとなる(釜山浦海戦、熊川海戦、第二次唐項浦海戦、場門浦・永登浦海戦)。
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従来、日本や韓国でこの海戦が過大評価され続けてきた。

曰く、秀吉の水陸並進作戦を挫折させた。
曰く、日本側の補給路を寸断した。
しかし、当初の日本軍には朝鮮南岸を西進する明確な目標も作戦も投入兵力もなく、本海戦も朝鮮水軍の攻撃被害に対応して約20日前に急遽編成された日本水軍の更に一部の兵力の参加であり、本海戦をもって全戦局の運命を決めたような評価は不当であった。日本の海上補給は全戦役を通じて継続されており、遮断されたわけでもない。当時の水軍の能力では制海権の保持には非常に多くの制限があり、海戦に敗北したとしても戦局に大きな影響を与えるような要素ではなかった。かえって、本海戦の結果日本の海上作戦計画が本格的な対応を行ったことで従来の被害の低減と迎撃作戦が機能することとなった。(「朝鮮役水軍史」有馬成甫)

しかし、李氏朝鮮では初の明確な勝利であり政治的に「三大大捷」の一つとしてプロパガンダに利用されて以来歴代政権で政治利用が続いているし、日本でも海軍権益強化のための海上覇権論のために牽強付会が長らく敷衍されてきた。このため状況を考慮しない俗説が広く流布されており、今も政治性を排除した冷静な評価が待たれる状況が続いている。

2009年04月23日

ロベール1世 (西フランク王)

ロベール1世(フランス語:Robert Ier, 865年頃 - 923年6月15日)は、西フランク王国の国王(在位:922年 - 923年)。アンジュー伯ロベール(ロベール・ル・フォール)の息子で、888年に西フランク王となったウードの弟。

ロベールはウードによってパリなどのいくつかの領地の統治や修道院の管理を任された。しかしウードが898年に死去しても王位は請求せず、カロリング朝のシャルル3世(単純王)の即位を承認した。その後も、ノルマン人の侵入からフランク王国北部を守った。

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922年頃まで国王シャルル3世と有力家臣ロベールの間に深刻な対立はなかった。しかしシャルル3世がHaganoを重用するようになると、ロベールは他の貴族達の支援も受けて兵を起こした。シャルル3世はロレーヌへ退却し、ロベールは922年6月29日にランスで西フランク王として戴冠した。一方シャルル3世も簒奪者を討つべく兵を集め、両者は923年6月15日にソワソンの近くで会戦した。ロベール1世はシャルル3世を破ったものの自身は戦死した。伝承によれば、シャルル3世と一騎討ちをして敗れたのだという。

ロベール1世の一人息子ユーグは、カペー朝フランス王のユーグ・カペーの父である。

2009年04月22日

沖縄県の歴史

沖縄県の歴史(おきなわけんのれきし)は、沖縄県を中心とした歴史の概略の項である。沖縄県となる以前の、先史時代、琉球王国時代、琉球藩時代もここで述べる。

「琉球」の表記は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求國」(7世紀)が初出で、その後「瑠求」(『元書』)などと様々に表記され、「琉球」に落ち着いたのは明時代以降である。明以前の「琉球」が現在の沖縄県周辺を指していたかは判然とせず、台湾を指していたという説や、あるいは単に中国大陸の東方にある(日本以外の)島々を漠然と指していたという説もある。

明との交易が始まった14世紀以降、自国の国号として「琉球」を用い、これが琉球王国が消滅するまで名称であった。正式には「琉球國」と言った。

「おきなわ(おきなは、あこなは)」の呼称の由来は定かではないが「おもろさうし」には「おきなわ」という名の高級神女名が確認される。このことは「おきなわ」なる御嶽があったことを示唆している。日本側の文献には、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』(779年)の中に、「阿児奈波」と出てくるのが初出である。「沖縄」という漢字は日本側からの日本語的な当て字であるが、これは新井白石の『南島誌』(1719年)が初出で、これは新井が長門本『平家物語』に出てくる「おきなは」に「沖縄」の字を当てて作ったと言われている。日本政府が「琉球処分」し、自国の領土であることを示す際に、県名「沖縄」が採用された[1]。

なお古来中国では沖縄本島を「大琉球」、台湾を「小琉球」と呼称していたため、両者が史書等で混同されることも多かった。。

先史時代
沖縄県には日本のような縄文時代、弥生時代のような区分は行わない。

先史時代は土器出現以前の後期旧石器時代と土器出現後の貝塚時代(縄文時代 - 平安時代)とに分けられる。

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旧石器時代
沖縄県にいつ頃から人類が現れたのかは明らかになっていないが、現在の南西諸島は、最終氷期にはアジアと陸続きであり、その頃に様々な動物と共に移り住んできたものであろう。県内最古の人骨は那覇市で見つかった山下洞人で、今からおよそ3万2千年前のものだと推測されている。また、1967年に具志頭村(現在の八重瀬町)で発見された港川人骨はおよそ1万8千年前のものとされ、日本で初めて見つかった完全な形に近い旧石器時代人骨として有名である。

化石人骨は沖縄本島を中心に、久米島、伊江島、宮古島からもみつかっている。

しかし、県内からは確実な「旧石器」の発見はない。一部に旧石器らしき石器はあるが、研究者の間で評価が定まっているとは言いがたい。北辺の鹿児島県奄美諸島からは細石器がみつかっている。また、以前はV字状に加工したようなシカの骨を「叉状骨器(さじょうこっき)」としていたが、多くはシカが異食症によって骨を噛んでできたものとする説が有力である。

港川人の年代から、続く貝塚時代までの約1万2千年間は遺跡が全く見つかっておらず、空白の時間となっている(ただし、上部港川人は1万2千年前とされる)。

沖縄貝塚文化
貝塚時代は、縄文時代にあたる貝塚時代前期と、弥生時代から平安時代にあたる貝塚時代後期に大きく分けられる。前半については本土の縄文時代中期頃から遺跡がみられるようになる。狩猟採集経済で縄文土器に類似する波状口縁の土器をもつことなどから「縄文時代」の名称を使用する場合もあるが、縄文時代・縄文文化とするかは意見が分かれる。後期は、海岸砂丘上に遺跡立地が移動し、主に漁撈を中心とした生業と考えられている。弥生時代の特徴に稲作(水稲耕作)があげられるが、現時点で弥生時代にあたる時期の水田はみつかっておらず、農耕がはじまるのは貝塚時代後期の末である。弥生土器など弥生時代の遺物の流入はみられるものの、弥生文化の影響はあまり見られず、むしろ独自色が顕在化する時期である。また貝の道と呼ばれる、貝輪などの貝製品の材料となる南西諸島に生息する貝を日本本土へ(遠くは北海道まで)大量に運ばれたことが知られている。 

縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島(宮古・八重山諸島)ではかなり違った様相が見られる。縄文時代に当たる古い時期には、厚手平底の牛角状突起がある下田原(しもたばる)式土器などが見られる。これらは縄文土器よりも台湾先史時代の土器との共通点が指摘されており、この時期には縄文文化と異なる東南アジア系の文化があったとも考えられる。その後約2500年前から先島諸島は無土器文化の時代に入るが、この時代もシャコガイを用いた貝斧など東南アジアとの関連性を示唆する遺物がみられる。約800年前ごろになるとカムイヤキや鍋形土器などがみられるようになり、本島地方と近しい文化をもつようになる。

日本本土の記録としては、714年(和銅7)に「信覚・球美」などの人々が来朝したと記されている(『続日本紀』)。新井白石は「信覚」は石垣島、「球美」は久米島に比定している。また753年(天平勝宝5)には鑑真が渡航の途中「阿児奈波島」に漂着したとされ、これは沖縄本島のこととされる。これ以後の沖縄の名称は長らく記録から消える。これら古代史料から7-8世紀の南西諸島社会は身分が形成され階級社会へ向かっていたとする説や政治的社会が形成されつつある社会との説が出されている。

古琉球
沖縄県によける農耕の痕跡のうち最古のものは紀元前8世紀頃のものだが、本格的な農耕社会が成立したのは12世紀頃だとされている。農耕社会が成立してから、島津氏の侵攻(1609年)までを「古琉球」と呼ぶ。

神話
琉球王朝の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などにある神話では、源為朝(鎮西八郎)が12世紀に琉球へ逃れ、その子孫が琉球王家の始祖とされる舜天になったとされる。また天の最高神(アマミクまたはアマミキヨ)が琉球の島々をつくり、夫婦の神を島に遣わしたという。夫婦神は島で三男二女をもうけ、長男は国王の祖先となり、彼の子孫を天孫氏と言う。また次男は諸侯の、三男は農民の、長女は君々(高位の神女)の、次女はノロ(巫女)の先祖となった。天孫氏は25代に亘って沖縄本島を支配したが、およそ12世紀末頃に地方豪族(按司・あじ、後述)が各地で反乱を起こし、天孫の重臣である利勇(りゆう)が王を弑し自ら僭称す。しかし各地の按司は彼に従おうとせず、浦添按司である舜天が利勇を討ち取って国を統一した。舜天の家は3代にかけて支配したが、第3代義本によって英祖に禅譲が行われて断絶した。英祖は5代にわたって治めたという(英祖王統)。

グスク時代
貝塚文化の後、12世紀ごろから琉球でも稲作・畑作を中心とした農耕社会に移行し、文明の度合いが色濃くなってきた。農耕を基盤とした社会が成立すると、集落は海岸部から農耕に適した台地に移る(貝塚時代後期後半には遺跡が台地上に移行する)。この時代をグスク時代と呼ぶ。

この時代は日本本土や中国大陸との交流が盛んで、中国だけでなく東南アジアの陶磁器も輸入されており、アジア貿易の中継点としての重要性をましてきた。これらで力をつけた有力者は地元の農民を束ねて豪族(按司・あじ)となり、石垣で囲まれた城(グスク)を築き、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展した。舜天や英祖といった伝説上の王も、この頃の有力な按司のことであったと考えられる。日本からは平仮名が輸入され(1265年に日本僧禅鑑が伝えたとも言われる)、表音文字として文書全般に利用されたほか、中国や東南アジアとの交流によって、これらの色が濃い文化をはぐくんでいくこととなり、その後の琉球文化の基となった。琉球の信仰はノロといわれる女性祭司の力が非常に強いシャーマニズム的なもので、古い神道にも近い要素がある。後に仏教も伝来した。

1291年に元軍に襲われたが、英祖軍は撃退している。

2009年04月05日

モノポリー

モノポリー(英語:Monopoly)は20世紀初頭にアメリカ合衆国で生まれたボードゲームの一つである。世界中に愛好者を持つ。プレイヤーは双六の要領で盤上を周回しながら、他プレイヤーと盤上の不動産を取引することにより、同一グループを揃え、他のプレイヤーから高額なレンタル料を徴収し、自らの資産を増やし、最終的に他のプレイヤーを全て破産させるのを目的とする。モノポリーとは英語で「独占」を意味する。

モノポリーの原型は、経済大学院の教授や学生が政治や教育上の試みとして制作していたもので、製品として販売された時点で30年の歴史があったといわれる。このゲームを、1933年にエンジニアのチャールズ・B・ダロウ(ペンシルバニア州在住)が遊んでみて惚れ込み、独自の改良を加えた。パーカー・ブラザーズに売り込んだものの、ファミリーゲームとしては終了までの時間がかかりすぎる点[1]など、ゲームの専門家にデザイン上の欠陥が52もあることを指摘されて商品化を断られる。しかし、ダロウが手作りのゲームを独自に販売したところ成功したため、パーカー・ブラザーズが権利を取得した[2]。また、ダロウが権利を譲渡する際、パーカー・ブラザーズはゲーム時間の短縮のために、90分で総資産を計算して勝者を決める方法をダロウに提案し、相手を最後まで破産させるプレイ時間の長い方式と併記することによってダロウは契約を受け入れた[1]。

1935年のクリスマスシーズンに初めて発売されたモノポリーは、大不況の時勢のもとで大ヒットした。1966年にはビートルズが来日し、ファンが殺到しホテルに釘付けになっていたため、ホテルでモノポリーに熱中していた[1]。

また、棋士の間でも、1990年代にモノポリーが流行した。地方対局にも対局用品と共に携帯し、昼の対局で火花を散らした棋士同士が、夜は棋士仲間やスタッフも加えて仲良くモノポリーに興ずる光景が見られた。[要出典]

現在では、他に地域・世界(なかにはスターウォーズなどを舞台に)などのさまざまなバージョンが存在する。

『億万長者ゲーム』や『いただきストリート』、『カタン』も、独自の面白さは加味されているが、基本はモノポリーの亜流である。

版権 [編集]
1965年にはなやま玩具が日本で初めてモノポリーを発売。1973年には版権がエポック社、1984年、ツクダオリジナル、1988年にはケナーパーカージャパンに移ったが、わずか1年で、トミーに、1996年にハスブロ・ジャパンへ、1999年に再びトミー(現タカラトミー)へ版権が移り、現在に至る。

盤面(アトランティック・シティ版) [編集]
40か所のマス目は28種類の地所・鉄道・会社、カードを引くマスが6か所(共同基金カード、チャンスカード各3か所)、所得税、物品税、刑務所及び刑務所見学、GO TO JAIL(刑務所へ行け)、フリーパーキング(駐車場)、GO(スタート地点)のマスからなる。

マスの通りや鉄道などの固有名詞はマービンガーデンとショートライン鉄道を除いて実在のもの[1]である。いくつかの通りには、アメリカでの慣習で、行き先の地名が付いている。

マスの構成 [編集]
*は、カードの移動によって止まる可能性のある場所。

ルール [編集]
ここで、示すルールはあくまで、一般的なものである。

ゲームにおける、紙幣や権利書、物件など、銀行から手渡されるものは基本的にバンカー(銀行係)が管理する。バンカーはプレイヤーが兼任してもよい[3]。

準備 [編集]
ボードを広げ、チャンスカード、共同基金カードをよくシャッフルし、ボード上にセットする。バンカーを1人決め、バンカーが、プレイヤーに$1、$5、$10が各5枚、$20が6枚、$50、$100、$500が各2枚の合計$1500ずつ[4]配る。準備が整ったら、全員がダイス2個(以下断らなくても、2個)を振り、目が大きい順に駒1個を選び、先のスタートとし、「GO」のマスに駒を置く[5]。


駒の進め方 [編集]
最初のプレイヤーが、ダイス(さいころ)を振り、出た目の数だけ駒を進め、止まったマスの指示に従う。また、ダイスの目がゾロ目(2つの目が同一)の場合、もう一度ダイスを振る。ただし、3度連続でゾロ目を出したら、即、直接、刑務所に入らなければならない。これを1ターンとして、終わって、交渉、家、ホテルの建設がないか確認し、次の人に移る。これを繰り返す。また、同じマスに複数人止まったり、相手の駒を追い越したりしても差し支えない。

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2009年03月21日

東京 - 日豊本線夜行列車「高千穂」、「富士」

1964年(昭和39年)以降、「富士」は日豊本線直通の寝台特急となりそれ以前から既に運行されていた東京 - 西鹿児島間急行列車「高千穂」の上位格の列車となった。翌1965年(昭和40年)10月1日には宮崎県へ乗り入れ、初の同県対東京直通特急となった。

なお「あさかぜ」以来、東京と九州各地を結ぶ寝台特急列車に国鉄での呼称として九州特急が知られるが「富士」はそのうち愛称を個別に与えられた最後発列車となった。

そのため、本節では同じ日豊本線を運行していた急行列車「高千穂」(たかちほ)など、東京圏から日豊本線に直通した列車群についても沿革中に記す。
おっくうこ リモデル ユズ ミドル マナ マスク スギラ フラフー フライング バスター コブラ フランジ モンキ 水平線 ジンジャー テーゼ なんぶ セリンリン アランス トブツ マイスタ オレゴンオイ ビヌーボー シルバ トレサパ プロセニ フィンエァ デフォルト ブギウギ ソマリア かぶき バイタル ガーネット ミラーボ ケンタウ バラライカ セクサ マダガス バチスト サポナリア ハンドル ストック スファレ イ長調 ミナレ ならく たびだち イージス スリリース ピクルス

東京 - 東九州連絡急行「たかちほ」→「高千穂」と周辺列車群 [編集]
1951年(昭和26年)11月25日 東京駅 - 都城駅間を運行する夜行急行列車として501・502列車が運行を開始する。
東京駅 - 門司駅間は、東京駅 - 熊本駅間急行31・32列車との併結。大分県・宮崎県からは初の東京直通列車でもあった。
1952年(昭和27年)11月 501・502列車に「たかちほ」と命名。同時に31・32列車には「阿蘇」(あそ)の愛称が与えられる。
1954年(昭和29年)10月1日 「たかちほ」は併結列車を東京駅 - 博多駅間急行「玄海」(げんかい)に変更。同時に、半室合造車ながら二等寝台車を連結。
1956年(昭和31年)11月19日 「高千穂」は併結を取りやめて全区間単独運転となり、運行距離を延長して東京駅 - 西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)間の運行とする。同時に食堂車を連結。また、列車愛称も「高千穂」と漢字表記とする。
この時から日本最長距離を走る列車となり、全区間走破には31時間28分を要した。しかし東京・大阪から鹿児島へは到達時分の短い鹿児島本線経由が一般的であったため、同列車を全区間乗り通す客はそれほどいなかったといわれている。
1961年(昭和36年)10月1日 東京駅 - 大分駅間を運行する夜行急行列車「ぶんご」が運転を開始する。また観光団体専用列車として、東京駅 - 大分駅・長崎駅間を運行する「九州観光団体専用列車」(きゅうしゅうかんこうだんたいせんようれっしゃ)が設定される。
1963年(昭和38年)6月1日 寝台特急「みずほ」に20系客車を充当。同時に大分駅発着編成を連結する。

最長九州特急「富士」と最長夜行急行「高千穂」 [編集]
1964年(昭和39年)10月1日 東海道新幹線開業に伴うダイヤ改正により、以下のように変更。
特急「みずほ」の大分駅発着編成を分離独立させ、それに「富士」の名称を与える。
「富士」には引き続き20系客車を使用するがこのとき一部客車を下関駅発着とし、大分駅乗り入れ編成は従来の「みずほ」と同じく8両であった。
「ぶんご」運転を終了する。
1965年(昭和40年)10月1日 このときのダイヤ改正により、以下のように変更。
特急「富士」、運行区間を日豊本線経由で西鹿児島駅まで延長。
東京駅 - 西鹿児島駅間1,574.2kmを実に24時間以上かけて運行することから同じ区間を走る「高千穂」とならび、日本最長運転の定期旅客列車となった。なお、この日本記録は「高千穂」が1975年(昭和50年)3月10日に廃止され「富士」が1980年(昭和55年)10月1日に運行区間を短縮して以降、破られていない。
「九州観光列車」の名称を「九州第1観光号」に変更。また、大分駅発の上りのみ運行となる。
1967年(昭和42年)10月1日 「九州第1観光号」の名称を行き先毎に変更し同列車の長崎駅編成に「五島」(ごとう)、大分駅編成に「くにさき」の名称が与えられる。
1968年(昭和43年)10月1日 このときのダイヤ改正により、以下のように変更。
「高千穂」は、鹿児島本線経由の急行「霧島」との併結列車となる。
同時に「高千穂」の編成からは寝台車・食堂車廃止。
「くにさき」運行区間を新大阪駅・大阪駅 - 大分駅間に短縮。「べっぷ(下り)3号、(上り)2号」に名称を変更する。
1970年(昭和45年)10月1日 「高千穂」に併結される鹿児島本線急行列車の名称を「桜島」(さくらじま)に変更。
1972年(昭和47年)3月15日 「桜島」の食堂車の連結を終了。
1975年(昭和50年)3月10日 山陽新幹線博多駅乗り入れに伴うダイヤ改正により、以下のように変更。
「富士」、使用車両を24系24形客車に変更。このときの編成図はこちらを参照されたいが「はやぶさ」、「出雲」と運用上も同じとした。
急行「高千穂」、名古屋駅 - 宮崎駅間の臨時列車に格下げ。

九州特急凋落の時代と「富士」 [編集]
1976年(昭和51年)10月1日 使用車両を24系25形客車に変更。「はやぶさ」、「出雲」と同時に東京発着の定期寝台特急初の2段B寝台車を投入。同時に新形の1人用個室A寝台、「オロネ25形車両」も連結される。なお、1986年(昭和61年)3月3日に1人用個室A寝台は「シングルデラックス」と命名される。
1978年(昭和53年)2月1日 「あさかぜ1・4号」(いわゆる博多「あさかぜ」)の24系25形化に伴い食堂車の運用を捻出するため、食堂車は大分回転の付属編成となる。同様の措置は共通運用だった「はやぶさ」、「出雲」でも行われた。→当時の編成図はこちらを参照されたい。
当時の国鉄では需要減が続いていた在来線の食堂車を新製しない方針であったため、運用が丸一日となる「富士」、「はやぶさ」の食堂車を途中駅折り返しとすることで終着駅での滞泊を無くし東京に戻る日を一日早めることで必要車両数を削減し、「あさかぜ」へ振り向けることが可能となった。
1980年(昭和55年)10月1日 ダイヤ改正に伴い、利用者の減少により運行区間を宮崎駅までに短縮。この時、日本最長距離特急の座を「はやぶさ」に譲る。
1984年(昭和59年)
2月1日 廃止されていた九州内のヘッドマーク取り付けが復活。
10月19日 西明石駅を通過中の上り「富士」が脱線してホームに激突、32名が負傷する事故発生。西明石駅列車脱線事故を参照。
1985年(昭和60年)3月14日 東京駅 - 下関駅間の牽引機をEF66形に変更。また、これを機に「富士」のヘッドマークを円形から戦前の「富士」同様の山型のものに変更した。
1986年(昭和61年)
3月3日 「富士」に4人用B個室寝台「カルテット」(オハネ24形700番台)を連結。
11月1日 このときのダイヤ改正に伴い「富士」の客車の受持ちを品川運転所から鹿児島運転所(基本編成)、熊本運転所(付属編成)へ変更。「はやぶさ」と共通編成となり、ロビーカーを連結開始。「カルテット」は「あさかぜ1・4号」へ変更。

2009年03月06日

アメリカ独立戦争における女性達

アメリカ独立戦争における女性達(アメリカどくりつせんそうにおけるじょせいたち、英:Women in the American Revolution)では、アメリカ独立戦争中とその前後で、様々な立場に置かれた女性達がどのように行動し、またその立場がどう変わっていったかについて述べる。

独立戦争の頃、政治と戦争に参加するのは男性に限られていた。しかし、女性がいなければ政治も戦争も動かなかったことも事実である。積極的に戦争の遂行に協力した女性の中には歴史に名を留めた者もいる。8年間にも及ぶ戦争とその前後の激動の時代を生き抜くためには多くの試練に耐え、また生活様式を変えていくことを女性達に強要した。新生したアメリカ合衆国の中で、女性の姿がすこしずつ社会の表に現れ始めた時代とも考えられる。

アメリカ独立戦争は、戦うのは自分達だと考えていた男達によって遂行されたものと認識されている。しかし、この戦争は広く伝えられた主義信条がなければ続けられなかったのと同様に、アメリカ植民地中の男性と女性両方の住人によって物質的に支えられなければ遂行できなかった。公の政治の場面には女性が登場しないが、女性が戦争に直面し、戦争が政治や公衆・家庭内の生活のあらゆる面で浸透してくるに連れて、通常の家庭の振る舞いが政治的に重要な意味合いを持つようになった。

女性が自発的に愛国者であったかどうかという質問を戦争は投げかけるが、政治的な同一性を維持しつつ、植民地の女性達が態度で表してみせた。伝統的な女性の職業による支援がこのことをよく表した。戦場で起こったことは既に家庭でも、国内の経済でも、また夫や父親の実業の世界で受け入れられていたことだった。女性達はイギリス製品のボイコットに参加し、兵士のための物資を生産し、イギリス軍の情報収集活動をやり、軍隊と行動を共にして兵士達のために洗濯や料理を行い、極秘の伝令となり、時には男性に扮して戦場で戦った。

国内の支援
独立戦争の当時、女性は家庭内の諸事を遣り繰りする責任があった。このことに関連して女性はホームスパン運動で働いた(ホームスパンは手織りの布)。輸入されたイギリス製の衣服を着たり購入する代わりに、愛国者の女性達は長く伝統のある機織りや紡績をやって自分達の衣類を家族の衣類に作り替えた。独立戦争の前の数年間における事態の推移により、この行動は政治的な意味合いを与えられた。糸を紡ぎ機を織られた「アメリカ製の」衣類は反抗の中の一機構となり、消費についても同じような行動となった。1769年、クリストファー・ギャスデンは植民地の女性達に直接呼びかけた「この危機に及んで我々の政治が動いていくかは、緊縮財政に係っており、それをなすためには女性達が主となって礼節とともに遣り繰りしていくかに掛かっている。(サウスカロライナの農園主、機械工、不動産の自由保有権者に。イギリス製品の輸入を閉ざせ。1769年6月22日)。イギリス製織物のボイコットに加えてホームスパン運動は大陸軍が必要とする衣類や毛布を生産することで貢献した。男性の製造業者はそのような製品と交換に徴兵を免れていたが、同じことをやる女性にはそのような代償も無かった。紡績、機織り、縫製は植民地の女性達の一部の仕事になった。愛国者としてその技能を使い独立戦争に荷担したことになった。
ブリザード キング スイート アクター タッパー フリーズ 国道日 コピー ノルウェー ケーワイ スラック コスト ナース デビル スレンダ スパナ てらつつき ジェイ メラノーマ オーイー フォトグ クラッチ テリト キンシバイ ムラサキ オブジェク フィニ スベリン ビーズ ピュア カナッペ プレーグ すりはく ベスビア レーム ひっす フライ スタート ション パルメ メション ヘルプ ハイブ ロスカット イカーゴ フロー マグノリ 小夜時雨 サモエード ナビテラ

国内経済が沈滞する中で、主婦はその購買力を使って愛国者側の製造者を支援した。女性はイギリス製品を家庭用に購入することを拒絶した。例えば紅茶のボイコットは自分やその家庭が愛国者の立場に立っていることを表明する比較的やさしい方法であった。1773年のボストン茶会事件はボイコットの表れとして最も広く認識されているが、この爆発的な行動の何年も前に愛国者の女性達が政治的声明としてまさにそのイギリス製品の消費を拒んでいたことは重要である。同様なボイコットは様々なイギリス製品に広がり、女性達は購入する代わりにアメリカ製品を作り出す道を選んだ。この「非消費ボイコット」が国家的政策によっていた(作ったのは男性)としても、女性はその支配する家庭の中で実行に移したのである。

女性達は経済活動にも積極的に関わった。1778年、一団の女性が、コーヒーを貯蔵しているという商人の噂に接してその倉庫に乗り込んだ。女性達はは倉庫を開放し、コーヒーを取り出して「没収」した。

独立戦争中、アメリカ製品を買うことは愛国者であるという姿勢を見せることであった。加えて倹約(独立戦争前は賞賛される女性の美徳)は政治声明となり、家事の切り盛りで戦時体制に貢献するよう求められた。しかし、戦時体制を維持するための女性達に対する要求は家庭内経済による貢献を超えるものになった。女性達はその家屋そのものを公衆の益のために差し出すことを求められ、共和制が形を取るにつれて大陸軍の兵士や役人の宿舎にも提供された。

女性達はフィラデルフィア婦人協会のような組織を通じても愛国者側に貢献した。この組織は戦時体制に貢献する女性の能力を組織として活用したものである。フィラデルフィアの女性達は資金を集めて戦費の助けとした。これはマーサ・ワシントンが受け取って、その夫ジョージ・ワシントン将軍に渡された。他の植民地でもこの例に倣い、エスター・デバート・リード(ペンシルバニア知事の妻)やサラ・フランクリン・バッチ(ベンジャミン・フランクリンの娘)が起案者となった。1780年、戦争も半ばの頃、植民地から上がった女性組織によって集められた資金は34万ドル以上にもなった。

2009年02月14日

ナツメグ (ゲーム)

渡部敦志は受験を来年に控えていた。 彼の通う葉成川(はせがわ)学園が生徒数減少の為2学期から他の学校との統合が決まったこと、友人の由佳子が転校することになったことなど色々な意味で最後の夏休みとなっていた。
トウワ マリンシャ パスネ マイル 琴の波 日本検索 ジュピター ライム ティーカ トラック パワステ カラー ミューズ レイオフ テレホ レイヤ チャイナ ダリー バッケン セル ハイスク チャリス おおみ ウバイド ドレープ ぎおんうお かぼちゃ レコアダー フィール もちは チキン ブーバル つれあい マスカレ りざや ルマガ 伊予緋 すぺあみ スケルト 十二単 ストライプ ヒラタケ 仮面 エゴイス ゼノタイ クロスセル ドアマン パンダ アケミス サラサ

昔、自分が転校してきた時に色々と気を遣ってくれた彼女にいつか恩返したいと思っていた敦志は、転校が決まり寂しげな様子を見せる彼女を見て決意する。

そして、最後の夏の楽しい思い出作りを目的とした夏限定の部活を友人達とともに立ち上げるのだった…。

渡部 敦志(わたべ あつし) 声:なし
主人公。田舎に暮らしていたが両親の仕事の都合で都会に引っ越してきた。昔から孤立しがちであったが由佳子のおかげで周囲と馴染む事が出来た事から、彼女にいつか恩返ししようと思っている。
東雲 由佳子(しののめ ゆかこ) 声:夏野こおり
敦志の中学時代からの友人で密かに彼に想いを寄せている。敦志の隣のマンションに住んでいる。成績優秀で委員長を務めるほか、家事も得意。オクラが苦手。
野島 ほとり(のじま ほとり) 声:佐本二厘
敦志達の後輩で料理以外の家事が得意。引っ込み思案なところもあるが実は天然。掃除のこととなると人が変わる。旧ねこねこソフトの特徴である「ぽんこつキャラ」を引き継いでいる。本作中最も感極まるシナリオを持つ。
乾 実梨(いぬい みり) 声:青山ゆかり
由佳子の親友で敦志とはケンカ友達。明るく外交的な性格で地元では有名な料理店(お好み焼き屋)が実家。太ももが太いのを気にしているらしく、冗談でも指摘されると非常に怒る。
小早川 円(こばやかわ まどか) 声:まきいづみ
学園の生徒会長を務める才色兼備な敦志の幼馴染兼先輩。スキンシップ好きで、敦志やセリスを抱いては何度も窒息の危機に見舞わせている(ただし茂雄には絶対にやらない)。根回しが非常に上手く、部活では通常出来ないようなイベントを幾度となく実現させる。敦志には「まぁちゃん」と呼ばれ、敦志を「あっちゃん」と呼ぶ。
セリス・アルフォード 声:韮井叶
学園の理事長が父親で、イギリス人とのハーフ。負けず嫌いな性格で普段はクールぶってるが何かあるとすぐにムキになる。学園には夏に転入してきた。くだらない駄洒落に弱い。納豆が大の苦手。昼食に重箱弁当を持って来ても、箸が使えないのでナイフとフォークで食べるという違った意味で器用な子。性格がかぶる実梨とよくケンカする。
松崎 茂雄(まつざき しげお) 声:おおくぼけんたろう
敦志の悪友。スケベで言動行動はどうしようもないが、勉学はよく出来る方で理系科目を得意としている。実はAVマニアで、エロにつながる発言が出た後は敦志や実梨に張り倒されるのがお約束になっている。ナツメグの姉妹作品である「ナギサの」にもナンパ男として出演している。
磯野 まゆか(いその まゆか) 声:韮井叶
敦志たちのクラスメイト。非攻略キャラでありながら無駄に活躍する。序盤ではシナリオナビゲーターとしても登場する。ストーリー上でよく敦志に突っ込まれるが、核家族である。
渡部美里(わたべ みさと) 声:まきいづみ
敦志の母親。広告代理店勤務で月に一度休みがあるかないかとは息子の弁。
桜井 春香(さくらい はるか)声:佐本二厘
敦志たちのクラスの担任。見た目教育実習生の20代後半。独身。茂雄にちゃんづけで呼ばれている。
桑本 政重(くわもと まさしげ)声:事務台車
敦志たちの通う学校の国語教師・学生指導部長。ルールを犯した学生に対し、『夢』や『希望』といったテーマでポエムを書かせて、それをクラスで朗読させるという罰をさせる。
山本(やまもと) 声:事務台車
セリスの執事。非常に能力が高いが、セリスのギャグセンスにだけは唯一ついていけない。
乾龍冶 声:胸肩腎
実梨の父親で、お好み焼き屋の店主。自称「難波生まれの江戸っ子」で、普段は『標準語+江戸っ子言葉』で話すが、怒ると関西弁が混じる。元革命家。
理事長 声:胸肩腎
セリスの父親で、葉成川学園の理事長。

2009年01月27日

Yak-9(Jak-9;ヤク9;ロシア語:Як-9ヤーグ・ヂェースャチ)

Yak-9(Jak-9;ヤク9;ロシア語:Як-9ヤーグ・ヂェースャチ)は、第二次世界大戦時にヤコヴレフ設計局が開発したソ連空軍の主力戦闘機のひとつ。戦後、北大西洋条約機構(NATO)によって付けられたNATOコードネームでは「フランク」(Frank)と呼ばれた。
フラッド キャロ メッカ 輝きの季節 テアーゼ 上位シーン 枕千鳥 フェラテ マドラス ロマン カーボン ランク ソーホー タンプ パーティー タック ルトップ ハバナ スプレッ エンド オキサ スフマート らくだいろ ブタン カゲル キタス スタジャン ランチ シーネ ネッキ アビリテ オルガス ばなな みなせ クローバー キジムシ ガマ対策 モンテ ローコード コック ツァボラ メーター ごぼう ピギー ランナー エルシー こもづの チャド かてい ブルジュド

Yak-9は、練習戦闘機から開発されたYak-7DI戦闘機の改良型の中・高高度用戦闘機として開発された。その後、Yak-9はYak-1/7に替わって大量に生産・配備され、大戦初期においてBf 109戦闘機を主力とするドイツ空軍に対し圧倒的に不利であった空軍戦闘機部隊再興の中核となった。

Yak-9シリーズは二次大戦において最も優れたソ連戦闘機のひとつとされ、低・中高度用のYak-3戦闘機とともにソ連のフランス人部隊でも好んで使用されたことが知られている。Yak-9は同じ連合国側の戦闘機スピットファイアやP-51などと比べて遙かに小型であり、日本の零式艦上戦闘機と比べてもさらに一回り小さい機体であったが、強力なエンジンと20 mm機関砲を基本とする強力な武装により、それらにまったく遜色ない働きを見せた。但し、前・中期型は機体の大半が木材や布で構成されていたことから、金属製のほかの機体に比べて機体重量も増しており(一回り大きな零戦より800 kgほど重かった)、エンジン出力の割には最高速は伸びなかった。また、それにより操縦においても独特の扱い難さがあったと言われている。一方、後期型(実質的には戦後型)であるYak-9Pは機体構造すべてが金属製となり、高出力(1500馬力)のVK-107Aエンジンを装備してそれまでの機体より高い性能を発揮することができるようになった。

戦後は、Yak-9は後期型のYak-9Pと複座練習戦闘機型のYak-9Vを中心に東欧諸国に大量に配備され、大戦中の活躍と相まって当時ヨーロッパではよく知られた機体であった。一方、朝鮮戦争初期には中期型(Yak-9Mなど)や後期型(Yak-9P)が中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国軍の主力となり、米英機等かつての「友軍機」とも戦った。これらのことから終戦後しばらくの間Yak-9はソ連の戦闘機の代表として捉えられており、朝鮮戦争時も国連軍側ではいわゆる「ミグ」(MiG-15ジェット戦闘機)の認知まで「ヤク戦闘機」が東側戦闘機の代名詞であった。

その後、Yak-9は東欧を中心に1960年代初頭まで配備されていた。

ソ連軍フランス人部隊機を模した塗装のYak-9UM(Yak-9U/Pによく似た外観の復元機)Yak-9(Як-9ヤーク9)/Yak-7DI(Як-7ДИヤーク7デーイー):初期型。新型のM-105PFエンジンを搭載するYak-7DI長距離戦闘機として開発された。1942年に初飛行。のちに改良され名称も新しいYak-9となった。
Yak-9(Як-9ヤーク9):前期型の量産型で、前線戦闘機として開発された。初飛行は1942年。
Yak-9 VK-106搭載型(Як-9 с ВК-106ヤーク9スヴェーカー106):VK-106エンジンを搭載する前線戦闘機として開発された。初飛行は1942年。エンジンが完成域に達しなかったため、計画は破棄された。
Yak-9B(Як-9Бヤーク9ベー):前期型の戦闘爆撃機型。1944年に初飛行を行った。
Yak-9L(Як-9Лヤーク9エール):戦闘爆撃機型の開発機。
Yak-9D(Як-9Дヤーク9デー):前期型の改良型。アンテナ柱が立っているのがYak-9との外見上顕著な相違点となる。初飛行は1943年。
Yak-9R(Як-9Рヤーク9エール):前期型の機体を用いて若干機数が製造された前線偵察機型。1943年に初飛行を行った。
Yak-9T(Як-9Тヤーク9テー):中期型。37 mm機関砲NS-37を搭載した打撃戦闘機型。初飛行は1943年。
Yak-9TD(Як-9ТДヤーク9テーデー):Yak-9Dの機体に37 mm機関砲 NS-37を搭載した長距離打撃戦闘機型。初飛行は1943年。
Yak-9K(Як-9Кヤーク9カー):中期型。45 mm機関砲NS-45を搭載した戦闘機型。初飛行は1943年。
Yak-9TD(Як-9ТКヤーク9テーデー):Yak-9Kの打撃戦闘機型で、45 mm機関砲 NS-45を搭載していたが、その他37 mm機関砲 NS-37や23 mm機関砲VYa-23、20 mm機関砲ShVAKなどの搭載試験を行った。1943年に初飛行。
Yak-9DD(Як-9ДДヤーク9デーデー):中期型の長距離護衛戦闘機型。中期型は前期型に比べコクピット位置が後方に移された。初飛行は1944年。
Yak-9「クリエールスキイ」(Як-9 "Курьерский"ヤーク9"クリイェールスキイ"):軽輸送機として開発された機体。Yak-9DD及びYak-9Vの機体やエンジンを使用して製作された。初飛行は1944年。武装をすべて降ろしコクピットを複座とすることで、最高速度564 km/hで乗客1名を運ぶことができるように設計されていた。なお、「Курьерский」はロシア語で「使者の、急使の、特使の」といった意味の形容詞。
Yak-9U(Як-9Уヤーク9ウー):エンジンを新型のVK-107Aに換装した後期型の初期型戦闘機型。初飛行は1943年。当初、VK-105PF2搭載型も開発された。また、45 mm機関砲NS-45 1門と20 mm機関砲B-20 2門を搭載する機体も開発された。
Yak-9M(Як-9Мヤーク9エーム):Yak-9Dの後継戦闘機型として設計された中期型の改良型。初飛行は1944年。
Yak-9S(Як-9Сヤーク9エース):Yak-9Mの改良型の戦闘機型で、23 mm機関砲NS-23 1門と20 mm機関砲B-20S 2門を搭載するのが主な相違点であった。初飛行は1945年。
Yak-9V(Як-9Вヤーク9ヴェー):中期型の複座型。初飛行は1945年。Yak-9Pの戦闘練習機として用いられた。
Yak-9UT(Як-9УТヤーク9ウーテー):Yak-9Uの発展型で、37 mm機関砲 N-37 1門と20 mm機関砲 B-20/S 2門を搭載する打撃戦闘機型。初飛行は1945年。
Yak-9UV(Як-9УВヤーク9ウーヴェー):Yak-9Uの複座戦闘練習機型。初飛行は1945年。
Yak-9P(Як-9Пヤーク9ペー):Як-9Уを全金属製にした戦後型の戦闘機型。基本的な武装は20 mm機関砲 ShVAK 3門。初飛行は1946年。なお、VK-105PF搭載型は1943年に飛行しているが、量産されなかった。
Yak-9PD(Як-9ПДヤーク9ペーデー):VK-105PF装備の迎撃戦闘機型。1943年に初飛行。
Yak-9UM(Як-9УМヤーク9ウーエーム):Yak-9後期型を模して新たに製作された復元機。アメリカ合衆国のアリソン製V-1710レシプロエンジンを搭載する。1990年代に少数量産された。
S-49A(С-49Аエス49アー):ユーゴスラヴィアのイカルス社で開発されたYak-9の発展型。戦後1946年より開発が始められ、1948年に初飛行を行った。エンジンはYak-9から入手した1180馬力のVK-105PFを搭載し、最高速度は554 km/hであった。武装もまたソ連製で、20 mm機関砲ShVAK 1門と12.7 mm機関銃UBS 2門を搭載した。
S-49C(С-49Цエス49ツェー):ユーゴスラヴィアのソコ社で開発されたS-49Aの改良型。主翼は金属化され、新たに1500馬力のイスパノ・スイザ製12Z-11Yエンジンが搭載されていた。武装はドイツ・マウザー製のMG 151/20 20 mm機銃 1門とコルト・ブローニング製の12.7 mm機銃M2 2門が搭載され、その他4発のロケット弾または250 kg爆弾が搭載可能であった。最高速度は690 km/hに達していた。

Yak-9D
初飛行:1943年
全幅:9.74 m
全長:8.60 m
全高:3.00 m
翼面積:17.15 ?
空虚重量:2350 kg
通常離陸重量:3117 kg
発動機:クリーモフ製 M-105PF 液冷式レシプロエンジン ×1
出力:1110 馬力
最高速度(地表高度):533 km/h
最高速度:591 km/h
実用航続距離:1360 km
上昇力:820 m/min
実用飛行上限:9100 m
乗員:1 名
武装:20 mm機関砲ShVAK(弾数120発) ×1、12.7 mm機関銃UBS(弾数200発) ×1

Yak-9M
初飛行:1944年
全幅:9.74 m
全長:8.50 m
全高:3.00 m
翼面積:17.15 ?
空虚重量:2428 kg
通常離陸重量:3095 kg
発動機:クリーモフ製 VK-105PF 液冷式レシプロエンジン ×1
出力:1180 馬力
最高速度(地表高度):518 km/h
最高速度:573 km/h
実用航続距離:950 km
上昇力:820 m/min
実用飛行上限:9500 m
乗員:1 名
武装:20 mm機関砲ShVAK(弾数120発) ×1、12.7 mm機関銃UBS(弾数200発) ×1

Yak-9U
初飛行:1943年
全幅:9.74 m
全長:8.55 m
全高:3.00 m
翼面積:17.15 ?
空虚重量:2512 kg
通常離陸重量:3204 kg
発動機:クリーモフ製 VK-107A 液冷式レシプロエンジン ×1
出力:1500 馬力
最高速度(地表高度):575 km/h
最高速度:672 km/h
実用航続距離:675 km
上昇力:1000 m/min
実用飛行上限:10650 m
乗員:1 名
武装:20 mm機関砲ShVAK(弾数120発) ×1、12.7 mm機関砲UBS(弾数170発) ×1